無限枝運の結末

こんな話を聞いた事があるだろうか

もしくは何かしらの会話で、この類の台詞を言った事もあるかもしれない。

「お前がそんな事をするとは珍しい、明日雨でもふるんじゃないか」

普段行動を起こさない者が、突如として珍しい行動をとったとき、
人はよくこんな感じの発言をする。

珍しい事が起こった後に、さらにまるで予期せぬ事が起こる。

詳しく調べてはいないから推測だが、意味的にそんな感じで使われるのだと思う。


だがそれはあながち間違いなどではない。

世界は一人一人それぞれの行動によって無数に変率する。

たった一人の運命事情だけでも、世界を大きく変える事だってあるのだ。

個人の持つ先の事象だけですでに膨大だ。

憶か? 兆か? もしくはそれ以上か?

とてもじゃないが数える事などできない。

世界規模ともなれば、巨大な運命集合体がまるで大木の枝のように連なっている。

その枝全てに、違う結末が存在する。

生ける者達全てが世界の命運を揺るがしているともいえるし、
たった一人が世界の結末を大きく左右しているともいえる。

それが確率事象。



だが私が見たものは、そんな膨大で、狂気じみた数の運命ではない。


一本。


たった一本だ。


一本ならば用意された結末も一本だけだ。


運の悪い事に、その結末とやらは、


私達を


世界を


この箱庭を


根本から否定する結末。


私は観る事ができる。

変率する運命ならば、私も結末を左右できる。

だが私の観たそれは枝ではなかった。

大木だった。

決められた運命しか持たない、真っ直ぐに伸びた大木。


私は枝を選ぶ事ができる。

しかし大木を裂く事はできない。

枝を創る事はできない。

何故なら私は観る者だから。


傍観する者だから。